基本文献紹介

中井久夫『隣の病い』

(ちくま学芸文庫、2010)

 精神医学と阪神大震災の経験とギリシャの詩について書かれたエッセイである。対象に向けられる優れた観察力と徴候解読という先読み的な微分回路的認知に関する論考を学び、その経験に接近する事は、臨床にとって重要な事項であると考えられる。何故ならば、「徴候的知」は、「臨床の知」「セレンディビティによる知」であるのだから。

履歴 
中井久夫は、1934年1月16日奈良県天理市生まれ、兵庫県宝塚市、伊丹市で育つ。 1952年に京都大学法学部に入学するが結核で休学したのを契機に1955年京都大学医学部医学科に編入し1959年に卒業後は京都大学ウィルス研究所の助手となりウィルス研究にて学位を取得する。その後、東大医学部附属病院分院で精神科に転じた。1975年より名古屋市立大学医学部の助教授に就任。1980年から神戸大学医学部教授。1997年に退職後は甲南大学文学部教授。阪神大震災後に設立された兵庫県立こころのケアセンターの初代所長を務めた。ひょうご被害者支援センター理事長、神戸大学名誉教授、甲南大学名誉教授。専門は統合失調症の治療法研究。絵画療法技法である風景構成法の発案し、統合失調症の回復過程研究に大きな業績を残し、精神科医H.S.サリヴァンの著作等多数の精神医学関連の翻訳を行った。また、フランスの詩人ポール・ヴァレリーやギリシャの詩人カヴァフィスの詩集の翻訳でも知られておりエッセイの名手でもある。
著書『中井久夫著作集――精神医学の経験』全6巻別巻2(岩崎学術出版社、1984-91)『分裂病と人類』(東京大学出版会、1982)『精神科治療の覚書』日本評論社、『こんなとき私はどうしてきたか』医学書院、『中井久夫コレクション』ちくま学芸文庫(全5巻)、『治療文化論』『私の日本語雑記』(岩波書店、2010)、『記憶の肖像』(1992)『家族の深淵』(1995)『アリアドネからの糸』(1997)『最終講義――分裂病私見』(1998)『西欧精神医学背景史』(1999)『清陰星雨』(2002)『徴候・記憶・外傷』(2004)『時のしずく』(2005)『関与と観察』(2005)『樹をみつめて』(2006)『臨床瑣談』『日時計の影』(2008)『臨床瑣談・続』(2009 以上みすず書房)ほか。共編著『1995年1月・神戸』(1995)『昨日のごとく』(1996、共にみすず書房)。訳書としてみすず書房からは、サリヴァン『現代精神医学の概念』『精神医学の臨床研究』『精神医学的面接』『精神医学は対人関係論である』『分裂病は人間的過程である』『サリヴァンの精神科セミナー』、ハーマン『心的外傷と回復』、バリント『一次愛と精神分析技法』(共訳)、ヤング『PTSDの医療人類学』(共訳)、『エランベルジェ著作集』(全3巻)、パトナム『解離』、カーディナー『戦争ストレスと神経症』(共訳)、クッファー他編『DSM-V研究行動計画』(共訳)、さらに『現代ギリシャ詩選』『カヴァフィス全詩集』『リッツォス詩集 括弧』、リデル『カヴァフィス 詩と生涯』(共訳)、ヴァレリー『若きパルク/魅惑』『コロナ/コロニラ』(共訳)などが刊行されている。



「共時性などのこと」より
観測の精度を上げても、予測の精度がどこまでも向上するということはない。現実の世界は予想外を含むものである以上、因果律によって織られた「硬い現実主義」に対して、少なくとも「やわらかな現実主義」のほうが〝現実的″であることを示唆している。
リハビリテ-ションの領域においても、観測の精度を上げようと、多くのテストや計測を実施するのに比例して、予後や改善の予測の精度がどこまでも向上したり、介入すべき問題点がより明瞭になる訳ではない。むしろ、観察者のあらさがしの眼にさらされることによる対象者の心身の緊張が増すことの不利益が問題になることもあるのである。



・「サリヴァンの統合失調症論」より
精神科医H.S.サリヴァンによれば、統合失調症には、破壊的側面とともに生命維持的な側面もあるということである。ただ、彼がこれらの概念を十分に定式化することはなかった。
彼は、対人関係の数だけ人格があるとさえ極言している。対人関係の場を離れて個人というものがあるというのは妄想であると繰り返し述べている。精神医学の方法は「関与的観察」(participant observation)しかないと彼はいうが、ここで注記しておきたいのは、participationは、「即融」という訳があるように、「関与」という用語よりも、かなり強い意味である。したがって観察者は場の一部と化していて、そういうものとしての限られた価値の観察しか不可能であるが、しかし対人関係について多少とも科学的な陳述は他に不可能であるというのである。



・「難症論」より
難症にどう対応するか。失敗すると取り返しのつかないような治療、決定的な痕跡の残る治療は控えて、現状維持を目標とする「待ちの治療」に徹するのがよい。
治療するというよりも時間をともに過ごすという感覚で接するほうがよい。患者との距離もだが、患者との関係の緊張度をほぼ一定に保つことである。その緩急をヘミングウェイの「老人と海」(小船に乗りひとりで出漁した老漁師サンチャゴと、全長約5.5メートルのカジキとの4日にわたる死闘を描いた海洋小説)の糸さばきが実によく教えてくれると例えている※注1。神あるいは老化過程を含む自然、あるいは医学の進歩あるいは医学の枠組みの変化が、今では考えられない解決をもたらしてくれるかもしれない。「こじらさないように」ということがいいのである。
人間は、日々身のうえに宇宙線のように降り注ぐハプニングを選択的に利用して何とか生きているのである、運やハプニングを締め出さないことが重要である。

・「コラージユ私見」より
人間の思考や感情や意志あるいは行動というものには、いずれも、二つの方向性がある。
すなわち、「まとまろう」とする統一的方向性と「ちらばろう」とする分散的方向性とである。そして、そのいずれの方向性も、それだけでは駄目なのである。考えをまとめるためには、まず、ある程度ちらばっていなければならない。あるいは適当にちらばらせなければならない。初めからひたすら統一をめざせば萎縮となり、後には一つに小さく固くまとまってしまえば、それは化石みたいなものとなる。しかし、分散しきってしまえば、それはまとまりのない無秩序、すなわちもう一つの死物である。精神の健康あるいは精神の存立自体の可能性は、その中間にあって、この二つの方向性の、揺らぎを伴った動的平衡にあると私は思う。それによって、統一と分散との統合、すなわち展開(発展)ということが可能になる。
河合隼雄は、どこかで「治療というものは、もつれた毛糸をほどくようなもので、ふわふわふわとやっていれば(ここで手真似)いつの間にかほどけてくるものですな」と語っているが、この直観的治療像には、まとめようという方向とちらばろうという方向とを、ともに無理のない範囲で調和させながら自然に回復させるという機微が巧みに物語られている。
積極的方法、たとえば自由連想法やロールシャッハ法には、「まずちらばらせよう」という方向性が前に出ている。それは、一つの冒険であり、したがって、まとめる力の弱い(支離滅裂になりやすい)精神病水準の人には危険である。風景構成法や空間分割法には「とにかくまとめさせよう」という方向性が前に出ている。したがって安全ではあるが、毎回実施してもそのつどめざましい展開が得られるということは例外である。こうしてみると、コラージュの過程は、「まとめる」方向(統一作用)と「ちらばる」方向(展開作用)とが、毛糸の玉を操るように交互にあるいは同時に働く過程であり、積極的方法と消極的方法とのちょうど中間ということができる。コラージュの治療力というものは、基本的にはそういうものである。この「統一対分散」という観点は、思考、感情、意志、行動のいずれの水準においても該当する。そして、実際の治療においては、思考を治療しているのだとか、感情を、いや意志をだ、という区別はない。
リハビリテ-ションの領域においても、まとめようという方向とちらばろうという方向とを、ともに無理のない範囲で調和させながら進めていくことが肝要である。



・「統合失調症の病因研究に関する私見」について:「微分回路的失調」についての仮説

多くの人が統合失調症にならずに済んでいるのはどうしてか。
癌遺伝子の多くがそうであるように、生存上非常に重要な機能を果たしているものの失調あるいは脱制御であって、それも生命の脅威とならず、社会的存在として生きてゆくのに障害となる程度である。あるいは有利な点さえあるのではないかと考えた。つまり、鎌状赤血球症や地中海貧血と同じ事情が伏在しているかもしれない。
この憶測は、次の根拠に基づいている。第一に、臨床上、統合失調症の初期あるいはそれに前駆する状態には、将来の予測に関連し、それも些細な特徴から全体を推理し、かつ過去の経験の蓄積に全くあるいは不十分不適切にしか依存しないような認知に関連している訴えがめだつことである。これを、「微分回路」の長所と弱点に似ている。
例えば、ノイズ吸収性の弱さとか、ゲインを増幅すると不安定になるとかである。「微分回路的認知の失調」という考えは、木村敏の「アンテ・フェストゥム」という人間学的概念に相当するが、むろん一次近似的なモデルである。今日までの統合失調症に関する認知障害の研究は主として「積分回路」的な認知についてである。これは「微分回路的認知」についての実験の困難さにもよるのであろう。
発達の初期において、些細な差による予測に自己生存がかかっている代表的な場合として乳幼児が重要人物の表情を読むという事態がある。これはサリヴァンがかねて重視していることであった。彼は「満足」と区別して「安全保障感」とそれが脅かされた際に発生するものとしての不安の概念を立てた。不安の際にその原因と関連して些細な差異への感受性が高まることは周知の事実である。些細な母親役の表情の違いを先取り的に正しく解読する能力と生き残りの確率とには正の相関があるであろう。同じ認知機能の重要性が異性への接近に際しても生じるであろう。
天候予測、狩猟、漁業、採集、治療などの名人の「セレンディビティ- 見つけ上手」とでも総称されるような能力に接して感心していた。先史時代における狩猟採集民の発見能力は、記載によれば、ほとんど全く徴候解読に依存している。カルロ・ギンツブルグによって一つの「知」としての地位を与えられている※注3。例えば現代でも、植物分類学者が新種をいちはやく発見する場合などに発揮される能力である。人類の生存に必須な機能としての、この種の認知の卓越を統合失調症親近者に見て、その失調形態の重要な一つとして統合失謝症というものを構想した。
脳というシステムは緊密に連絡し合っているサブシステムから成っている。時間が立つと、さまざまの分野に波及するだろう。特に、過去の経験という巨大なコンデンサーはたいていのノイズを吸収してしまう。この「積分回路」の失調をも併せて考えるべきである注2。また、疲労しやすい「微分回路的認知の失調」が特に早く現れやすいために、たまたま初期徴候となっている可能性もありうる。しかし、感度を上げるとノイズを拾いやすく、リアルタイムにおける絶対確実な予測を求めると潰乱し、増幅すると不安定になるなど、微分回路の特性といわれるものは、統合失調症患者の特性と共通であるようだ。
統合失調症の遺伝性に関するタブーに触れそうだが、問題にしている機能自体は遺伝しなければ人間の態を成さないもので、手足や顔の形態や機能の遺伝と同じである。失調するかどうかは、非常に多くの要因がからんでいるであろう。なお、この機能は必ずしも人間に限らなくて、ひょっとすると系統発生的に古い成分を含んでいるかもしれない。
変化しか認知しないという点では、嗅覚がそれに近いと思う。また調節遺伝子を含む多因子遺伝は、古典的な遺伝対環境論を無効にする。どうして統合失調症に皆がならないのであろうかという問題が意味を持つのは、このようにかなり基本的な機能の失調を考えるからである。結核がそうであったように、たいていの場合、危機は水面下で終わる。つまり、こういう苦しい臨床的事態の成立を妨げるシステムを生体は備えているという仮説である。

名ボクサーの試合をみれば、彼はたえず「精妙にゆらいで」いる。このゆらぎなしでは、思わぬ方向からの打撃に対処することはできない。さらに、モハメド・アリのビデオを見れば、相手がまだ運動を起こしていないうちに彼はジャブを開始しているとのこと※注4。これはフィード・バックという「時遅れ」回路ではない。彼は徴候あるいは徴候の徴侯を認知して、ただちに行動を起こしているのであろう。


統合失調症親和性:未来志向、微分回路-変化を敏感に捉えることができるが、ノイズの影響を受けやすい。微分回路は見越し方式ともいわれ、変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられ、先取り的回路であり過去のメモリーが生かされない。

鬱病親和性:過去志向、積分回路-変化に対する反応は鈍いが、ノイズの吸収力は大きい。


※注1へミングウェイ/福田恒存訳:老人と海、新潮文庫pp74-75
月が昇ってから、もうだいぶたっていたが、老人はまだ眠っている。魚は相変らず悠々と泳いでいた。舟は雲のトンネルのなかにすべりこんでいく。
 老人は突然、眼がさめた。右手の拳がぐいと引っ張られ顔にぶつかったかとおもうと、綱がどんどん流れ出ていく。右の掌が燃えるように痛い。左の手にはなんの感じもない。かれは右手に全力を集中して、綱を食いとめようとする。が、綱はものすごい勢いですべっていく。やっと左手が綱を探りあてる、かれは、綱に背をもたせかけた。今度は背中と左手とがかっと燃えあがる。おもわず左手に力がはいったので、掌にひどい傷ができてしまった。かれは控えの巻綱のほうを見かえる。それは片端から順調に流れ出ていく。ちょうどそのときだ、魚がものすごい音をたてて海上に跳ねあがった。つづいて水の上に落ちる大きな音がきこえる。それから魚は何度も何度も跳ねあがった。舟はすさまじい勢いで引きずりまわされる。しかし綱は依然としてどんどん流れていった。老人はそれがあやうく切れそうな瞬間までおさえては、つと放してやる。そんなことを何度も何度もくりかえした。かれはいま、へさきに引きずり倒されたままがんばっている。顔が鰭の肉きれの上に押しっけられていた。が、動くこともできない。  


※注2J・キャンベル:チャ-チルの昼寝 人間の体内時計の探求、青土社pp 254-260
積分回路:フィードバックには制御能力があり、制御によって適応性が高まるので、生物におけるフィードバックは進化にあたって幅広く採用されている。
フィードバック回路は通常ホメオスタシス的である。フィードバック回路は、あるシステムがある特定の状態から逸脱する時はいつでももとの状態に戻すことによって、そのシステムを調整する。
フィードバックは、制御の一つの方法ではあるが、また不安定を生むものでもある。システムは振動体となる可能性があるなぜならば、フィードバックは一度限りの事象ではなく、理想目標値をめぐって行き来する過程だからである。



注3カルロ・ギンツブルグ::神話・寓意・徴候せりか書房p193
要するに、過去、現在、未来に向けられた推論的、あるいは易占的範例が存在するのだ。それは認識形態により、対象を異にする。それが未来に向けられると本来の意味での占いになる。過去と現在と未来に向けられると、診断と予後という二つの顔をもつ医学的症候学になる。そして過去に向けられると法学になる。しかしこの推論的、あるいは易占的範例の背後には、人間の知的活動の最古の形態がかいま見える。つまり地面にかがみこみ、獲物の足跡を調べている狩人の姿である。


※注4J・キャンベル:チャ-チルの昼寝 人間の体内時計の探求、青土社pp 261-263
コーネル大学医学センターの精神科医ダニエル・スターンは、モハメド・アリとカ-ル・ミルデンベルガーとの間でドイツのフランクフルトで行われた世界ヘビー級ボクシングのタイトルマッチを研究室で映写した。その当時のスターン博士の主な関心は、どうして赤子が生れてすぐに母親の動作や音声に対したいへん正確なタイミングの感覚でもって反応できるのか、ということにあった。
アリは、当時二十四歳で不敗であり、ヘビー級ボクシングの歴史の中で最も速い左のジャプの持主の一人だという評判であった。スターン博士は、映画の瞬間的なタイミングの研究を成し遂げた。彼は、アリが左のジャブを突き出すのにかかったフィルムの駒の数をかぞえた。彼は、そうしたパンチのちょうど半数を越えたところが五十分の九秒より速いことを発見した。これは、人間にある最も速い視覚的反応の時間である。さらに、サウスポーのミルデンベルガーは、リングに上っている時間の三分の一以上、五十分の九秒という決定的なスピードよりも速く左ジャブを放った。
この結果からいくつかの複雑な問題が提起された。もし、パンチが心理学用語の「刺激」と見なされるならば、そしてそのパンチに対するボクサーの防御のブロッキングがその刺激に対する「反応」と考えられるならば、アリのおおかたのジャブとミルデンベルガーの多くのジャブは、速すぎて誰もブロックしたり身をかわしたりできないものであった。なぜならば、五十分の九秒という心理的時間定数は、近づいてくる物に人がどれだけ速く反応できるかの限界だからである。上手なボクサーは、パンチを放つ前にパンチを放つ合図を出すことはない。それなのに、アリのほとんどのブローはブロックされたり、はずされたりして的を打てなかった。アリは第十二ラウンドでテクニカル=ノックアウトで勝ったのであった。
スターン博士は気づいたのであるが、このフィルムの分析結果は、脳が他の人びとの微妙な動きを極めて早く理解し予知することができるということを示している。ミルデンベルガーは、アリの電光石火のジャブを避けるのに、すでに起った事象に反応していたのではなく、アリのプログラム化された行動の連続を時間的空間的に予想し、たとえそれらが解読しがたいように意図されていても解読していたのだった。パンチを当てるためには、相手のボクサーが何千分の一秒か先にいる位置を正確に推測することが必要である。そしてパンチをブロックするには、同様な極めて正確な時間の判断が必要なのである。

※モハメド・アリ:ヘビー級史上最速の一人、1973年に.アリはジョ-・フレ-ジャ-(1971年モハメド・アリに判定勝した)では無く、カ-ル・ミルデンベルガーを今までで最も困難な相手であると述べている。
※ボクシングでは、相手をノックアウトするパンチは強いパンチじゃないんだ。打ち出すのが見えないパンチなんだ。トマス・ハウザ-:モハメド・アリその生と時代(上)岩波現代文庫p211より


大越友博