基本文献紹介

『ゲシュタルトクライス』
(木村敏、浜中淑彦訳、みすず書房、1975)
Von Viktor von Weizsäker, Der Gestaltkreis, Theorie der Einheit von Wahrnehmen und Bewegen, 1940.

 身体行為と知覚と環境との関係を捉えるための最も基本的な文献の一つであり、そこでの要となる関係が、「相即」Kohärenzである。このキータームの経験を獲得しておくことは、臨床にとって最重要な事柄の一つである。

履歴 ヴァイツゼッカーは、1886年4月21日、ドイツのヴュルテンベルク州の首都に生まれた。父はその州の首相を務め、祖父はテュービンゲン大学の新約聖書学者であり、その家系は代々、プロテスタントの牧師や神学者を生んできた。このような名家に生まれ、教育をうけたヴァイツゼッカーは、フライブルク大学のフォン・クリースのもとで生理学を、ハイデルベルク大学のフォン・クレールのもとで内科学を学ぶ。また、これと同じ時期にカント哲学やシェリングの自然学にも関心を抱き、新カント学派のヴィンデルバントのもとで哲学を学んでいる。貧血時における血流速度のテーマで博士論文を仕上げ、第一次世界大戦中は神経学の研究を行った。その後、ハイデルベルク大学で教鞭を持つとともに、フロイトに強い影響を受ける。第二次世界大戦中、1941年にブレスラウ大学に招聘され、敗戦とともにハイデルベルク大学に戻り、臨床医学総論研究所を設立、1952年の退官までそこの所長を務め、医学的人間学の研究に専念した。1957年に死去した。
 ヴァイツゼッカーが「生命と関りあわねばならぬ」という態度のもとに行った当時の医学への批判的な取り組みの要点は、主体の導入と新たな論理の導入という二点である。主体の導入によって、行為世界の探求という課題を現象学と共有し、新たな論理によってシステム論のカップリングとつながる前段階の機構を整備することになった。

主体的経験 まず主体的経験の内実を捉えてみる。たとえば私が散歩する際、大きな木がある家の前を通り過ぎたとする。するとこの木は、最初前方に、次第に私の真横へ、そして後方に移っていく。あるいは、私が自室におり、部屋の中を歩くと、私に対し窓から見える景色は変わり、家具の位置も変わる。私が歩行をした際、ある種の運動が現れる。
この運動の現れは事物が静止しているようには見えず、周囲も動いているように、つまり互いに動きあっているように見えることがある。木がある家の前を通り過ぎる例でみるならば、私の一歩一歩によって、木は大きくなりそして小さくなっていく。あるいは、木が私に向かってくるように見える。またこの現れは、歩行速度を変えると異なってくる。例えば、ゆっくり一歩一歩踏み出すよりも、より速い速度で通り過ぎる方が、木が迫ってくるという見えが強くなる。あるいは、場面を変え、私が、ブロック塀に向かって歩くことを考える。この時、ブロック塀に向かい歩行速度を上げれば、私がブロック塀に向かっているというより、ブロック塀が私に向かってくるということの方が現れる。
このように、私が運動を行う際には、実際に動いていない物の運動も現れる。通常、木が迫ってくるや、ブロック塀が向かってくるなどは、「本気にされない運動」として知覚される。錯覚は、この本気にされない運動が、本気に受け取られたとき起こりうる。しかし、もちろん錯覚と言えるためには、現れている運動が、客観的事態に対応していないということを知っているときに限ってであり、それ以外の場合は実際の運動とみなされ、錯覚と現実の区別はつかない。このように、仮象運動を本気に受け取るというような場合には、対象を見る作業それ自体が問題になっているのではなく、対象を見る作業の現実性格が問題になっている。また私が円形を見る場合、一本の連続した線でなく、比較的少数の僅かな点であっても円に見える。
では、私が動く際に現れる仮象運動を「本気にしない」のはなぜであろうか。ヴァイツゼッカーは『ゲシュタルトクライス』において「われわれが知覚された運動を事実上の運動と見かけだけの運動とに区別できるのは、生物学的な必然性である」と述べている。
眼の前に電気スタンドを置き、それと私の間に指を目の高さで固定させておく。そして、頭を左右に振る。頭を振る速度を最初はごくゆっくりから、次第に速くしていく。ごくゆっくり頭を振っているときは、電気スタンドも指も静止しているように見える。次第に頭を振る速度を上げると、電気スタンドは静止しているが指が電気スタンドの前を左右に揺れ動いているように見える。頭を振る速度を一層速くすると、指と電気スタンドの両方が一致して動いているように見える。頭を振る速度という連続的な量の変化に対して、見えが段階的に変化している。環境世界(Umwelt)において静止している両物体が、最初は静止したままで、次に部分的に動き、最後には全部動いて見える。様々な程度の保持によって、私は、環境世界の恒常性を確保しうる。ここからわかることは、「私が自分で動くとき、私は自分に対し様々な運動を現出せしめる」という事である。この運動の知覚をヴァイツゼッカーは「自己知覚」としている。また、私に対して現出してくる運動の一部を本気で受け取り、一部は本気で受け取らない。この詳細な条件はまだわからないが、少なくとも、環境世界が静止しているにもかかわらず、私の運動によってその静止が障害される場合、そこでの環境世界の運動を本気に受け取らないことがおこる。

環境世界 知覚を体験として考えるならば、まさに現出するものが現実に他ならないと言うことができる。知覚の本質は綜合ではなく記号的な「簡約化」である。例えば、私が、月を見る場合、月を明るい円盤として見ているわけではない。そうではなく、月は明るい円盤として見られる以上の属性(本来は球体である、三日月、満月など見えは違っても同様の月である等)を有しているものとして月を見ている。目に見える明るい円盤と頭で考えられる球体は対象にとって記号的な約束事である。しかし、この以上のものを有しているということこそ月を適格に知覚する条件にもなっている。このように知覚において記号的な簡約化が成立しているということは、一部をもって全体を代表させることが成立しているということである。つまり、知覚の総和をもってしてもそれは依然として一部をもって全体を代表したものに過ぎない。この意味においてヴァイツゼッカーは「私の知覚する世界は私の環境世界でしかない」と述べている。この簡約化は、対象の一部を取って、他を捨てるというような作業ではなく、現実性という意味が込められている。

私と対象の出会い ヴァイツゼッカーは知覚について、知覚は工場品的な像としてではなく、それ自体「生成の途上にある活動性」として捉えねばならず、また「現に生じつつある私と環境世界との出会い」であるということの二点を強調している。この出会いは、有機体の内界において行われる。この内界を研究するには、環境世界からと、有機体的基体の特異性からの二重の規定性を取り扱うことにより可能である。この二重の規定性を考察するためにヴァイツゼッカーの知覚に対する見解は以下のようなものである。
(1)体験された秩序は客観的秩序(体験された対象の秩序)ではない。
 満月・三日月・新月・立ち待ち・居待ちなど月の満ち欠けを見ることができるが、これは、感覚的な仮象であり、客観的な事実とは一致しない。また、角度をかえ四角形を見る場合、それはひし形に見えるが、同時に(偏った)四角形としても見える。知覚は一義的ではなく多義的である。するとここには、知覚の現実度を決定する際の問題が含まれる。
(2)知覚における秩序は客観的対象の秩序によって制約される。
 知覚は客観的対象の秩序とは別の秩序を有し、多義的であるが客観的対象の規則的変化が伴っている。例えば、階段の絵を見る場合、階段がせり出しているようにも見える場合がある。これは刺激の多義性を示すものであるが、知覚の多義性は体験と対象の同一という事では決着づけられない。一つの対象が、異なったいくつかの現出様式を持つ場合、ここならば階段の絵が反転し階段がせり出して見える場合、それは対象の属性であるが、知覚は対象の現出様式の一つを取る。白い面上に隣接した二つの黒点が目にはいいった場合、有限数の異なった知覚が考えられる。二つの点が見える、二点が水平に並んでいる、一つの点ともう一つの点が見える、二点が黒板の上にある、二点はこんな大きさであり、これほど離れている等。これらどの知覚をとってみても、それぞれが同一刺激に対する異なった部分への着目である。
(3)知覚はいくつかの可能な客観的秩序を示す。
 体験された秩序が客観的秩序とは別でありながら、客観的秩序により規制されるのはなぜか。このことに対する手がかりは、われわれが客観的に不可能という知覚を持てないということである。以前に述べたように、知覚は何が体験されたかが問題であった。何が体験されるかということは、正しいや誤っている等が問題になっているのではない。つまり、ここで述べられている客観的に不可能あるいは可能という事は、知覚と対象を隔てているものが正しいか誤っているかの差ではなく、可能か現実かの差である。
(4)知覚における量の反理
 鉄道のレール沿いに視線を動かす場合、レールは収斂していき最後には融合してしまう。しかし、レールの幅はどこをとっても同一に見える。このような矛盾は通常、一つの固定した場所から見るとき、すなわち、私との関係においてレールの一部は近く、一部はだんだん遠ざかっていくと見るとき、幾何学的必然性を持った事態として解消してしまっている。つまり奥行きの知覚それ自体が平行線という全体的印象を含んでいる。平行であると同時に収斂していくレールは不可能であるが、私の前方を遠ざかっている二本の平行なレールが遠近法的に収斂して見えるということは、私にとって現出している可能な知覚の対象である。また、レールが収斂して見えるという事は可能である以上に必然的である。遠くの物が近くの物より見かけ上小さく見えるという事態は、知覚それ自体が自身の中に含まれている矛盾を解消するための前提になっている。
この量の反理で強調されることは、「そう見える」ことと「そうである」ことに見いだされる矛盾が、解消されてしまっているということである。上述の(1)-(3)では、知覚は、客体をそのまま捉えるわけではないが、客体がどのように見えるかということには可能な現出様式に従っているということが明らかである。この可能なということには、遠くの物が小さく、近くの物は大きくなどの条件が含まれており、まさに、その条件が、知覚が現実性に近づくための前提になっている。つまり、「レールが収斂して見えるという事は可能である以上に必然的である」の必然性とは、知覚の条件によって規制されているということである。
(5)空間と時間は世界の中にある
知覚における空間的・時間的秩序は対象の客観的秩序によって規制されているが、それと同一ではないことを見てきた。では、この秩序はどのようにそのつど現出するのだろうか。ヴァイツゼッカーはこの問いに対し以下のように答えている。「世界やその中の事物は空間や時間の中にあるのではない。空間や時間が世界の中にあり、物のもとにあるのである。」知覚は体験であると考えられてきた。つまり、主観的なものと客観的なもの二つを対置していくのではなく、客観的なものを主観において、主観的なものを客観に即して有しうるということが考えられてきた。そうであるならば、空間的・時間的秩序の現出に対するヴァイツゼッカーの解答は、知覚における自我と環境世界のそのつどそのつどの特定の結びつきにおいて、当の空間的・時間的秩序もその度ごとに成立していくということを述べていると考えられる。もちろん、どのようにその秩序が成立するのかが今後問われねばならない。
このように知覚を考えるならば、問わねばならないことは以下のことである。「知覚行為が私と環境世界の秩序を生むならば、知覚を通じていかなる秩序が私と環境世界に生じるのかを問わねばならない。」繰り返しになるが、知覚行為は体験である以上、物をそれ本来とは異なった仕方で現出せしめる、だが、まさにこの「異なった」ということこそ知覚しうるための条件でもある。また、私と環境世界の境界は、明確に固定されてはおらず、その都度異なった仕方で固定せねばならない。例えば、水中を泳ぐ場合は皮膚に、光の作用と視覚を研究する際には網膜にという具合に。その意味でも、知覚行為は、私と環境世界との一回きりの出会い(Begegnung)として理解してなくてはならない。したがって有機体の行為を記述するためには、自我と環境世界の出会いを記述する必要性がある。

相即 この私と環境世界が特定の関係で結びついていること、あるいは、出会いと言われることをヴァイツゼッカーは相即(Kohärenz)と呼んだ。相即とは、運動と環境世界との間にすでに形成されてしまっている関係だけでなく、知覚と環境世界、知覚と運動にも適用される関係である。ヴァイツゼッカーは相即の例として以下のような事例を挙げている。ある人が蝶を観察する場合、まず蝶の像が網膜の一部の上を動く。次に蝶の飛ぶほうへ視線の移動が起きる。蝶の独特な飛び方に応じて、頭の運動、胴の運動、歩行の運動も起こってくる。これら一連の運動は、蝶の像を出来る限り持続的に網膜の中心部に結像させることが可能になるという結果が目指されている。これにより多様な障碍にもかかわらず、観察者と蝶は視覚的に一体となっている。知覚における私と環境世界の相即においてこの一体となっているということは重要である。私と環境世界の境界はあらかじめ固定されているものではない。つまり、「私は蝶を見ている」という場合、この知覚の生々しさの中には、私と対象の区分は差当り考えられていない。この意味において、出会いという非常に特徴的な表現をヴァイツゼッカーは使用したと考えられる。
この蝶の観察という事例において、相即が起きていることを以下に確認していく。蝶の飛行という環境の変化にも関らず、視覚においては、同一の蝶の像を維持できている。この維持を可能にしているのは、蝶の像を出来る限り持続的に網膜の中心部に結像させることを可能にするという結果が目指されている運動によってであった。これは、環境世界の変化に伴う運動の相即が起きているということである。しかし、蝶の観察において、この運動と環境世界の相即に注意を向けるならば、蝶の観察は行えなくなってしまう。このことをヴァイツゼッカーは「回転扉を通り抜ける場合に、入るときにだけ家の内部が見え、出て行く時には内部がもう見えない」という比喩を用いて回転扉の原理(Prinzip der Drehtür)あるいは、相互隠蔽性(gegenseitige Verborgenheit)と呼んだ。蝶の観察の例で見たように、知覚と環境世界の対応が維持されているならば、それを可能ならしめており、運動と環境世界の相即が生じている。つまり、知覚することと動くことはからみ合って生じているはずである。知覚と運動がからみ合っているということは、知覚の条件に運動があるということではない。運動によって環境世界の静止が障害されたとしても、ある段階までは知覚によって環境世界の静止は保たれる。このからみ合いということをヴァイツゼッカーは「私が自分で動くときに私は一つの知覚を感じるという事態として、また私が或るものを知覚するときに私にとって一つの運動が現前する事態として成立する」と述べている。このからみ合いが知覚と運動の相即である。この知覚と運動の相即の条件に回転扉の原理が含まれているため、蝶の観察の例のように、知覚と環境世界の維持が問題になっている場合、その維持のために働いている運動と環境世界の相即は現出しない。
ヴァイツゼッカーは『ゲシュタルトクライス』において相即を特に知覚と環境世界の関係において使用している。しかし、上述したように相即は、知覚と環境世界のみならず、運動と環境世界、知覚と運動においても適用できる。このこと自体はヴァイツゼッカーももちろん考えている。先取りになるが、ゲシュタルトクライスとは、まさに、知覚と運動がそれぞれを代理しうるようなからみ合いの関係である。

自己運動 自己運動に対する最初の規定は以下のようになされている。「或るものが生きているかどうかを決定する場合、ことにそれが動物である場合には、われわれはまずその運動を見る。言葉は持前の単刀直入さでもって『自分で動いているから生きているのだ』es bewegt sich,also lebt esという表現をする。」ここで重要なことは、自分自身で動くことが出来なければ生きていないとか、生きているということは自分自身で動けることだということではなく、自分自身で動くものに対し一つの主体を想定しているということである。
 知覚においては何かが体験されているということが重要であった。運動において重要なことは、「何かがなされている」ということである。このように考えるならば、運動において示されねばならないものは、どのように行為が実現されるかである。運動は、ある一つの目標に対し様々な行程でそれを達成する。このことをヴァイツゼッカーは「作業原理」と呼んだ。
例えば、直立している人の静止を考える。直立している人は、前腕を曲げそこに籠をかけている。この籠の中に重い分銅を入れてゆく。籠の重さが1キログラム程度の時は、前腕の屈筋が震えるだけでそれ以外の変化はない。籠の重さが10キログラムを超えたあたりから、地面につけた両足は変化しないが、全身の体位は変化しやや前かがみになる。そして、籠の重さが一定以上の限度を超えると、それまで直立していた姿勢が、籠の重さに引っ張られるように片足を一歩前に出す。これら三つの変化はどれも、身体の重心を保持し平衡状態を保つために籠の重さ(障碍)を克服しようとする作業である。
異なった刺激が同一効果を、同一刺激が異なった効果を生じさせ、まさにそのことがなくては生命の維持が不可能になってしまうことの証明として調整的適応がある。調整的適応を説明するために多くの理論が作られた。そしてそれらの理論に当てはまらない特殊状況が出現した場合には、その状況に対応する特殊反射が用意されているという仮定が与えられた。例えば、平面上の歩行に対し反射理論を作り上げ、平面でない歩行に対して特殊反射を想定し、説明を行うということである。しかし、適応とは、環境世界が変化しても、正常な反射によって作業が達成しうることである。特殊状況に応じて特殊反射が出現するということは適応が全く適応になっていないと考えられる。即ち、平面の歩行であれ、上り坂、下り坂、階段の歩行であれ、それらの作業が達成されさえすれば、その作業は適応した作業であったとみなす。つまり、一切の作業はそれぞれ原本であり、それに伴う環境世界との関係もそのつど原本であると考えるべきである。
私が自分で動くとき、私は自分に対していろいろな運動を現出せしめるのだが、知覚作業において、自分に対しての種々の運動は犠牲にされている。私が蝶の観察を行う場合、蝶に関心を向けている間は、その観察のために生じる運動は隠されている。知覚作業の相即対象と犠牲対象はどちらか一方が自身に対し絶対的価値を持つというものではない。今まで犠牲にされていた対象が相即対象になりうるし、その場合、それまで相即していた対象は、犠牲にされることになりうる。いずれにせよ、そこに運動が関わっている。この運動をヴァイツゼッカーは自己運動と呼んでいる。つまり、「自分で動く」ということは、環境世界からの力に出会うだけでなく、その運動自体が環境世界の力の成立に関与している。例えば、乗馬である。騎手は馬上での自身の運動によって、馬から与えられる力や自分や馬に与えられる外界の力に対し制御を行う。騎手と馬がそのように接触関係を維持する限り、同一の運動形式が実現されている。ヴァイツゼッカーが自己運動という場合、その運動が知覚の役に立っているのか、運動行為の役に立っているのかの区別は意味をなさない。

ゲシュタルトクライスについて
相即原理 ヴァイツゼッカーがゲシュタルトクライスとして定式化したものは知覚と運動の相互補完的代替機能である。このことを彼は次のように述べている。「身体の平衡に関与する運動系においては、運動知覚の全部もしくは一部が自己運動によって置換されうるし、逆に運動を知覚することによって自己運動が行われないで済むこともありうる。この両者のやりとりの額に応じて、これを妥協と呼んでも代償と呼んでもよいだろう。つまりそこには知覚と運動の準・量的な等価性が見られ、両者は互いに他を代理し置換しうるのである。このことを等価の原理と呼ぶことができる。」
身体の平衡とは、有機体が地球上に住んでいる限り、いかなる体位においても課せられている。この身体の平衡を保つという実験として回転実験があげられる。身体を取り囲むキャビンだけが回転している場合、キャビンが回転している、あるいは、キャビンと一緒に身体も回転しているという知覚が生じうる。また、身体のみが回転している場合も、キャビンのみが回転していた場合同様の知覚を生じさせる。これらどちらの知覚が生じた場合でも身体の平衡という作業原理は満たされる。つまり、キャビンのみが回転する場合の身体も回転しているという運動への代理、身体のみが回転する場合のキャビンも回転しているという知覚への代理が生じている。これらの代理が起きても、キャビンのみ、身体のみが回転していると知覚されても平衡という目標は達成されている。
知覚と運動のからみ合いをヴァイツゼッカーは「私に何らかの知覚が生じる場合、その知覚を生じさせる運動が、私が運動する場合、運動に応じた何らかの知覚が生じている」と述べている。知覚と運動は互いを代理しうるとともにからみ合っているのである。このからみ合いの条件として相互隠蔽性あるいは回転扉の原理がある。相互隠蔽性とは「私にとって或るものを現出させる行動それ自体は私にとって現出せず、私にとって或るものが現出することによって私は同時に行動してもいる」ということである。
 ヴァイツゼッカーは、代理の結果を常に平衡としていた。平衡とは先にも述べたように、有機体にとっていかなる体位においても絶えず課せられているものである。ヴァイツゼッカーはこの平衡の概念を生物がその環境世界の中で生物学的同一性を保持することとしている。つまり、平衡概念は、空間的な相互関係を意味するのではなく、環境世界への関り方を意味している。ヴァイツゼッカーは、この私と環境世界の関りにおいて、それらが一つに融け合っていること、その一元性の妥当性を相即と呼んだ。

『ゲシュタルトクライス』における主体 知覚の考察から判明したことは、知覚は解剖学的、生理学的、空間時間的に与えられたデータからは説明したり論理的に構成したりできないという結論であった。知覚とは私と環境世界の出会いであることが判ったからである。同様に有機体の運動も、それを形式発生として考察するならば、神経支配の生理学や運動器官の機械力学から考え出されるようなものではなく、やはり有機体と環境世界の出会いとしてのみ捉えうる。古典的自然科学の問い方が「認識が客観を認識する」という形式であったのに対して、新しい問い方は「一つの私がそれの環境世界に出会う」という形式をもつ。ここで「私」と物理的現象との一切の混合を防止するために、われわれは現象との結びつきをまだ残している私の概念からそれと環境世界との対置の根底をなす原理を取り出して、これを主体と呼ぶ。
ヴァイツゼッカーによって規定された主体は、有機体と環境世界が出会うという、まさにこの出会いの根底をなす原理である。つまり、意識のない有機体であっても、あるいは、心的内容を有していない有機体であっても環境世界との関わりを持つ以上は主体が成立している。主体の危機とは、心身喪失や意識喪失にあるのではなく、有機体と環境世界の出会いの消滅、相即の破壊である。しかし、有機体が生きている限り、相即が全く破壊されるということは考えられない。相即とは前節で見たように、生きていることの自明な一面である。生きていくということに相即は欠くことが出来ないのである。有機体と環境世界の一つの出会いが途切れても、そこには必ず新たな出会いが生じる。確かに、ある一つの相即が途切れ、そこに新たな相即が生じる場面において、主体は消滅の危機に瀕している。しかし、「主体が転機において消滅の危機に瀕したときこそ、われわれは初めて真に主体に気づくのである」と述べているように、ヴァイツゼッカーにとって転機こそ主体を見極める絶好の機会であった。「主体とは確実な所有物ではなく、それを所有するためにはそれを絶えず獲得しつづけなくてはならないもの」である以上、転機を乗り越え不断に繰り返される回復において主体の統一性も成立する。

考察 知覚と身体運動と環境の間には、さまざまなタイプの相即がある、と考えられる。相即のもとで成立しているのが、代理である。知覚と運動が互いを代理しうるという事態のより一般的な例としては以下のようなものが考えられる。電車に乗っている際に、隣の電車が動き出したにもかかわらず、自分の乗っている電車が動き出したと感じる場合である。本来、隣の電車が動きだしたという知覚が生じるところに、自分の搭乗している電車が動き出したと錯覚が生じる。この錯覚が生じる際には乗っている電車が動き出したという運動感がある。この場合、知覚によって運動感が生じたため自身の乗っている電車が動き出したという錯覚に陥ったと考えられる。
 ここには知覚が運動感と結び付いているという知覚と身体運動の相即と、知覚と環境の変化(列車の相対移動)の相即とがある。知覚と環境の相即が強いために、知覚と運動の連動が引き出されている。ところが隣の電車が過ぎ去ったとき、知覚と環境の相即は断ち切られ、知覚と身体の相即はただちに別状態へと移行する。自己運動の錯覚には、複数の相即が関与していると考えられる。
また身体体勢の変化と身体にかかる重力のような別種の相即もある。これは身体と環境との相即である。それぞれのモードは、少しずつ異なった相即の内容を含む。ヴァイツゼッカーは平衡を重要視していた。平衡において身体の重力への関わりが考えられる。しかし、重力は、知覚の対象ではない。知覚の対象でないものに、身体が関わっていることが考えられる。平衡状態を保つということにおいて、身体運動は重力と間違いなく関わっており、対応しているはずである。身体が重力の中で形成された時、身体は重力への関わりを取り込んでいる。行為の継続にとって内的なものに行為は相即している。また、重力が常に同じ重要度で関与しているのでもない。水中であれば、水圧や水の特性の方が重力よりも、行為の継続にとって必要な条件になっている。このような度合いの変化に対し、それを知り対応するということは行っていない。身体はその度合いの変化を感じ取り、既に対応してしまっているはずである。つまり、相即は気付いた時には既に起こってしまっており、意識をそれに向けた時には、その相即は断ち切られているか、十全に届くことがない。相即は意識の事実ではないのである。これはヴァイツゼッカーの相即の発展的なモードである。臨床においてもっとも重要なのは、こうしたタイプの相即である。
さらにまた、知覚も形成プロセスを経ていき、運動も形成プロセスを経ていくのだから、知覚と運動のゲシュタルトクライスとして、知覚が細かくなるにつれて運動が上達し、運動が上達するにつれて知覚が細かくなるという場面も考えられる。これは運動と知覚が連動しながら形成されていく場面である。例えば、轆轤を使い茶碗を作る場合である。人並み程度に茶碗が作れるようになると、次第に粘土の固さ、粘土の粘着性などを細かく把握できるようになる。さらに、その日の湿度までも知覚できるようになり、この知覚の細かさに応じて、轆轤を回す行為も微細な調整ができるようになる。このように、知覚と運動は密接に絡み合っていてかつ相互に連動しながら、相互の形成運動を行うと考えられる。臨床の場面で形成されるのは、こうした事態である。

 (河本英夫)